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アド・ミュージアム東京について 鬼の贈り物

広告関係団体の組織化

近代産業としての広告産業を確立するために、一企業の枠を超えて取り組んできた吉田秀雄は、業界秩序の確立や共通利益の擁護を目指して、広告関係団体の組織化を推し進めました。

広告代理業界の組織化に取り組む
最初に吉田が取り組んだのは広告代理業界の組織化でした。第二次世界大戦末期、わが国の広告代理業は統制強化に基づく業界統合によって、最終的に全国で12社に統合されました。敗戦の混乱の中で当時の日本新聞連盟(現・日本新聞協会)は、新聞広告の取引秩序を維持する必要性から、同業組合単位で新聞広告の取扱業者を指定する指定業者制を採用しました。そして、先の12社が結成した日本新聞広告同業組合を含む複数の組合を指定業者に指定し、新聞社との取引をそれらの組合加盟社に限定したのです。
しかし1947年4月に独占禁止法が公布され、この指定業者制が違法とされたことから、広告業界に新たに参入しようとする広告代理業が急増し、’48年末には全国に224社の広告代理店が乱立するに至りました。
このような広告代理業の乱立の結果、過度な値引などの過当競争が目立ち始め、広告業界が混乱の様相を呈し始めたことを重く見た吉田は、不公正な取引を助長し、業界の秩序が極度に損なわれることを憂慮して、広告代理業界の大同団結の必要性を訴え、関係者の説得に乗り出しました。
’50年5月、日本新聞広告同業組合と全国新聞広告同業組合の加盟社に何れにも属さない業者を加えて、新たに日本新聞広告業者協会(現・日本広告業協会)を結成し、吉田自身は幹事長に就任、電通が事務局を提供するなどしてその運営を全面的に支援しました。


広告界あげての取り組みを促す
広告代理業界の組織化を推進する一方で、政府による広告課税問題への対応など広告関係業界が一丸となって取り組む必要性を痛感した吉田は、広告界全体の組織化を目指して行動を起こします。
すなわち’47年2月には、東京地区の広告主、媒体社、広告代理業を会員とする日本広告会(現・東京広告協会)の結成を主導し、’53年3月には副会長に就任しました。日本広告会はその活動目標として、(1) 新進広告技術者の養成、(2) 広告倫理の確立、(3) 広告の啓蒙、(4) 広告の調査の4項目を事業目標に掲げていました。
’47年3月、流れに呼応するように関西広告協会(現・大阪広告協会)が発足しました。日本広告会と関西広告協会は、翌’48年の新聞・雑誌に対する広告課税反対運動を協力して推進し、’52年にはついに広告課税案を撤回させることに成功しました。
このような実績を背景に、’53年10月には、日本広告会、関西広告協会、中部広告協会など、各地の広告団体をメンバーとする全日本広告連盟が結成され、ここに全国各地の広告団体の連合体が発足することになりました。


全日本広告協議会の設立
広告活動が活発化するに伴って、広告に対する社会の関心が高まり、同時に広告に対する各種の批判も強まりました。吉田はそのような広告批判に対しては、広告界をあげて対応する必要があると考え、'59年4月、広告関係団体の首脳を帝国ホテルに招き、広告の自主規制の強化と広告による公共奉仕の推進のために、全日本広告協議会の設立を提唱しました。この呼びかけを契機に、関係団体間で協議が進められ、’62年2月、全日本広告協議会(全広協)が発足しました。

道なきところに道を作る
1963年1月30日、青山斎場で吉田秀雄の葬儀が執り行われました。当時、日本商工会議所会頭であり全日本広告連盟会長であった足立正氏はその弔辞の中で、「君がこんにちまでに自ら創り、かつ関係し、また育成につくした諸団体の広範囲なることは驚くほどであります。いわば道なきところに道を作ったというこれらの君の業績に対して、私たちは、あらためてここに感謝の意を表したいと存じます」と述べ、吉田の一企業の枠を超えた貢献に対して賛辞を贈ったのでした。


吉田秀雄と「鬼十則」
広告取引の近代化
商業放送の実現に奔走
パブリック・リレーションズの導入
マーケティング導入と実践の先駆者
近代的広告会社の実現
広告界の国際化を推進
広告関係団体の組織化
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