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Permanent Exhibitions・常設展示 常設展示のみどころ 広告にエポックを切り開いた人々
常設展示では、わが国の広告史上に大きな足跡を残した5人の人物を取り上げ、そのプロフィールとともに関連資料をコーナー展示しています。広告の将来を見通し、表現の壁を乗り越え、広告界のいまを切り開いた人々の、夢、情熱、そして卓抜した才能をうかがい知ることができます。
「新聞広告の推奨者」
福沢諭吉 天保5〜明治34(1835〜1901)年
福沢諭吉は、西洋文明をわが国に積極的に紹介し、日本の近代化を推し進めた知識人として知られ、『西洋事情』、『学問のススメ』ほか多数の著作を残しました。
明治15(1882)年には、日刊紙『時事新報』を発刊し、言論機関の自立性を高めるために、当初から広告を重視する姿勢を打ち出しました。福沢は、明治16年10月16日発行の『時事新報』に、「商人に告るの文」という一文を掲載し、新聞広告について、「到達範囲が広く、費用が安いことにおいて、匹敵するものがない」と述べています。また、「もし新聞ではなく、他のチラシや張り紙という手段を用いて新聞同様に広く広告を行き届けさせようとすれば、その手数と費用は莫大なものとなり、一般人の資力ではどうすることも出来ない」とも述べて、新聞広告の有用性を訴えています。

「商業美術のパイオニア」
杉浦非水 明治9〜昭和40(1876〜1965)年
杉浦非水は、わが国の商業デザインの先駆者といわれ、商業美術を新しい独立した美術分野として確立した中心的人物です。非水は、日本画を素地とする優れたデッサン力に、アール・ヌーボーなどの先進的なデザインを加味し、独自のデザイン(創作図案)を生み出しました。後年、非水は創作図案研究団体の「七人社」を設立、旧来の「図案」からのデザインへの脱皮を啓蒙するため、昭和2(1927)年に商業美術雑誌『アフィッシュ』を創刊しました。昭和10(1935)年には、多摩帝国美術学校(現・多摩美術大学)の初代校長に就任しています。

「消費者のためのアドライター」
片岡敏郎 明治15〜昭和20(1882〜1945)年
片岡敏郎は、大衆の視点から商品を観察し、買い手の心をくすぐる優れたコピーを数多く世に送り出した名コピーライターです。寿屋(現サントリー株式会社)の宣伝部長時代には、「赤玉ポートワイン」の大々的なキャンペーンを行い、ポスターから各種のプロモーション活動まで独創的な広告・宣伝戦略を展開しました。片岡の活躍は、昭和初期の「歯磨スモカ」新聞広告シリーズで円熟期を迎えます。自らを「アドライター」と称し、機智に富む斬新なアイディアで大衆の心をつかみ、日本の広告界に新時代をもたらしました。昭和16(1941)年には、軍国的な時代の風潮を嫌い、廃業を宣言しました。

「CMソングの先駆者」
三木鶏郎 大正3〜平成6(1914〜1994)年
三木鶏郎は戦後のラジオ・テレビの世界で一世を風靡した作詞・作曲家です。三木の音楽活動は従来の作詞作曲家の枠を越え、多岐に渡ってその才能を発揮させていました。1947年には、NHKのラジオ風刺番組「日曜娯楽版」を主宰し、聴取率80%という記録を残しました。また、1951年に開始された民間放送の黎明期には、数多くのCMソングをヒットさせ、ラジオ・テレビをまたがるCMソングの全盛を築きました。「明るいナショナル」、「キリンレモン」などは、現在もなお親しまれている寿命の長い作品です。

「広告界の近代化の旗手」
吉田秀雄 明治36〜昭和38(1903〜1963)年
吉田秀雄は、(株)電通の第4代社長であり、また広告の近代化と科学化を通じて、わが国広告界の礎を築きました。戦後間も無く、新しいマスメディアとしての商業放送の設立を主導。また、マーケティング、クリエーティブ、PRなど欧米の先進的手法を積極的に取り入れて、アメリカの広告代理店を手本にした近代的広告業を実現しました。1948年には、クリエーティブ技術の発展向上を目指して、「広告電通賞」を創設したほか、広告界の健全な発展のために数多くの広告関係団体の結成に関わるなど、その多岐にわたる業績は、今日もなお輝きを失いません。
江戸時代は広告の宝庫だった 広告にエポックを切り開いた人々
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